NPO法人 環境ボランティア野山人 理事長
北海道科学大学客員教授
佐川 泰正
フットパス(FootPath)とは「イギリスを発祥とする、森林や田園地帯・古い街並など、地域に昔からあるありのままの風景を楽しみながら歩くことのできる小径(こみち)」と、日本フットパス協会で定義づけている。小川巌氏(エコ・ネットワーク代表)は「歩く人のための道である」とも言っている。この識見を広義に考えれば「歩く人」と「道」とのコラボレーション(共同製作)と考える事ができる。「歩く人」の行為は健康趣向であり、散歩・閑歩・散策・急歩・行脚など、歩き方も目的によって様々である。「道」そのものについても道・路・途・径や、通り道・山道・坂道・田舎道など、地形や機能面から様々な道がある。また教育・修業・人徳・歴史として捉えた柔道・剣道・華道・仏道・キリストへの道・道教など数えきれない生き方としての「道」がある。本来「歩く」事と「道」とは全く別のものであるが、フットパスはこの両者を結びつけ、かつお互いが活き(はたらき)あって、新しい世界を作り出してくるのである。「歩く人」と「道」の架け橋により、またそのコラボレーションにより、歩く人は生き生きとし、道もまた生き生きとしてくる。それがフットパスである。
人が元気になればそこに住む人々も元気になり豊かになる。道が豊かになれば地域社会に新しい文化も生まれ、経済の発展へと繋がる。「歩く人」のための「道」から「道」のための「歩く人」とまで考究できる。道元禅師は「わたしが山を愛する時、山またわたしを愛する。石までが大小問わず私に語りかけてやまない」と言っている。また「自然界の森羅万象を自己と対立する概念としては捉えず、自己そのものが自然と同化する。自己と自然が常に照応し、交感すると自覚できる心理作用……」(松本章男著「道元の和歌・偈文解説‐中公新書」)と記している。山中を歩いているとき、遠方の山は、近くの丘や樹木により時々遮られ見え隠れする。見えた、見えない。また見えた、また隠れた。そしてまた出会った、またいなくなった。となり、そのうち遠方の山と語り合い、遊び仲間となることがある。つまりその時、自分と遠方の山は友人になる事ができる。
三浦綾子さんの小説「道ありき」の最初のページに新約聖書、ヨハネ伝福音書、第14章6節からの引用文が次のように載っている。「われは道なり、真理(まこと)なり、生命(いのち)なり」イエス・キリスト。極めて浅学非才な私流の勝手な解釈をするならば、イエス・キリストはそのまま道だという事です。あなたを導く道なのです。そして、それが本当の真理、正しい生き方であり、この世に生まれた意味を掴める道だという事です。ここで拡大解釈をするならばイエス・キリストが道だとしたら、そして私達の歩く道だとしたら、私達はイエス様の道を、踏みつけながら歩いている事になる。イエス様は遠い彼方にいるのではなく、私達の真下におられ、そのイエス様の上を遠慮しないで歩いている事になる。思わず今歩いている「みち」に跪き許しを求め、感謝の気持ちが湧いてくる。つまりここでも自己と道とのコラボレーションができ、イエス・キリスト(神の子)は遠くにいるのではなく私達の最も近い所にいておられる事と思われる。
仏教の基本に仏・法・僧がある。この中の法はダルマと言い「だるまさん」のだるまもそこから来ているそうだ。ダルマというのは人の生きるべき道、人を人として保つ道、あり方、規範という意味だという。法(ダルマ)というのは人間の生きる道を下にあって支えるもの、つまり真実とか宗教的教えという他に道という意味もあるのだと言っている。(中村元・奈良康明「仏教の道を語る」‐東京書籍)道についての思想・哲学は人類の誕生から始まっていたのかもしれない。なぜなら人が歩いた所におのずと「みち」ができてきたからである。その「みち」の廻りには上下、左右、前後に限りない自然があり、現象があり、限りない困難・苦難そして希望と実りが存在している。それは時の流れと共に永遠に変化し続けると思われる。この永遠に続く道を味わい楽しむ事ができるのがフットパスなのである。この事を図に表してみた(下図)。道には見えるものと見えないものがある。見えるものと同化し、見えないものを想像する事もまた道の探求へと繋がる。道には営みがあり、道は生きている。